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なぜ駐車場会社が スキーリゾート会社をつくったのか? / インタビュー前編

日本スキー場開発株式会社取締役会長氏家 太郎

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注目されるスキー場〝再生請負人〟

40代、50代の人なら、若い頃に一度はスキーを楽しんだ人が多いはず。1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」はスキーブームをブレイクさせるきっかけとなり、リフトの待ち時間が1時間ということもざらだった。しかし、スキー人口は長野五輪が開催された98年の1800万人をピークに減り始め、2013年には770万人まで落ち込んでいる。苦境に立たされたスキー場が多くなっているなか、スキー場の〝再生請負人〟として注目されているのが、2005年12月に設立された日本スキー場開発だ。

実は同社の大株主は駐車場のサブリースを手掛ける日本駐車場開発。当然、「なぜ駐車場の会社がスキー場の再生を……」と不思議に思う人も少なくないだろう。神戸大学スキー部の元主将で「雪の便りが届くようになると、そわそわしてくるスキー大好き人間」といってはばからず、20代の後半のときには2年ほど長野のスキー場近くの宿泊施設に住み込みで働いていたこともある氏家太郎会長が、会社設立の経緯について次のように説明する。

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「私は00年に日本駐車場開発へCFO(最高財務責任者)として入社し、管理部を一から立ち上げてきました。そして、03年のJASDAQ市場での株式公開、04年の東証2部、そして05年の東証1部への上場を果たすことができました。その一方では、以前から疲弊する日本のスキー場をよくしたいという思いを募らせていて、独立して再生事業を起こすことも考えていました。しかし、巽一久社長に自分の思いを話すと、『会社の事業としてやっていけるだろう』いわれ、100%子会社の形でスタートを切ることになったわけです」

日本駐車場開発に入社する前に氏家会長は、大手電機メーカーで営業を、そして半導体製造装置メーカーで財務を担当した経験を持つ。同社には氏家会長のように、商社や不動産会社などで腕を磨いてきた〝一騎当千〟の強者が揃い、駐車場のサブリースという新しいビジネスを構築してきた。もちろん、その力を活用すれば、他の分野でもさまざまな新規事業を立ち上げることも十分にできる。それを証明する狙いも日本スキー場開発の設立には込められていたのだという。

ピンチを救ってくれた株主の一言

そして、氏家会長が最初のスキー場再生に選んだのが、長野県の白馬エリアにある「鹿島槍スキー場」で、06年9月にそれまでの運営会社であった地元の予備校運営会社から取得した。それからレストランを新装したり、スキー用品のレンタルに高級感を持たせるために人気ブランドの最新用品を揃えたり、テコ入れをして初めてのシーズンに臨んだ。

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「しかし、すぐにスキー場の事業が好転するわけではなく、初年度は1億円の赤字を計上し、結局、最初の3年間は赤字が続きました。日本駐車場開発の株主総会では、『なぜ、将来性のないスキー場の運営を続けているのか。われわれへの配当の原資である親会社の利益を食いつぶすような子会社ならやめてしまえ』という厳しい意見が上がったこともあります。でも、そんなときに地元の大町市の株主の方が総会にお出でになり、『きちんと設備投資を行ない、従業員も一生懸命に改革や改善に取り組んで、徐々に効果が表れている。地元の人間全員が期待を持って見ている』といっていただいたのです。これを機に潮目が一気に変わっていきました」

いまでは長野県で鹿島槍スキー場以外に5つ、その他に群馬と岐阜で1つずつ、合計8つのスキー場を有する一大スキーリゾート会社となった日本スキー場開発。16年7月期は売上高65億5900万円(前期比11.5%増)、営業利益10億3500万円(同14.3%増)を見込み、今年4月には東証マザーズへの株式公開も果たした。では、氏家会長はどのようにスキー場を再生してきたのだろう。

引用元:ベンチャータイムス

インタビュアー

KSG

眞藤 健一